慈眼寺 副住職ブログ

きれえなもん

奥さんが娘にご飯を食べさせていると、突然娘がポツリと、

 

「いつもありがと」

 

と言いました。

奥さんはあまりに突然のことにびっくりしてしまい、涙ぐんでしまいました。
そんな言葉を教えた覚えはないのに、なぜそんなことを突然言い出したんだろうか?二人でずっとその原因を考えていました。お互い、そんな言葉を投げかけあういい夫婦でもないもので(笑)

そこでハッと思いついたのが、毎朝奥さんは娘とふたりでお寺の留守番をしているのですが、そのときに本堂のちょうど前、ご本尊の観音様のところで必ず、

「マンマンちゃんいつもありがとう」

と二人で合掌していたのです。他にも、外を歩いていてお地蔵さんの前を通れば必ず同じことをしていました。

そして私も朝の勤行の時に娘が起きていた場合、娘をつれて二人で本堂に行き、お経をあげたあと、自分の母親の遺影の前で、

「ばあば、いつもありがと。今日も守ってね。」

と言っていました。

自分たちは娘に向かって言っているわけではないので、そういうことをしている意識は全くなかったのですが、知らぬ間に娘にそんな言葉が刷り込まれて、自分たちに還ってきたわけです。ビックリです。ちょっと預けたものに大きな利子がついて還ってきた気分です。

もちろん、本人はそんな言葉の意味がわかろうはずもなく、条件反射のようにつかっているだけで、優しい子に育つかどうかわかりませんし、感謝の心を持った子になるとは限りません。ですが、きれいな言葉をなげかければ、それはいつか、思いもしない形で還ってくるのだなと思いました。

逆に言えば、汚い言葉を吐けば、それもまた思いもかけない形で還ってくる。因と果の計り知れない連鎖のほんの一旦しか見ることができない私たちですが、この厳粛な真理にただひたすら手を合わせる気持ちしかありません。

私の大好きな漫画に、西原理恵子の「ぼくんち」というものがあります。じゃりん子チエの10倍ほど下品な漫画ですが、社会の弱い立場にある人たちが、毎日必死で生きる姿を、優しくて、でもどこか諦めたような、不思議な目線で見つめ続ける、下手くそな絵の漫画です。

この漫画に、自分の子供かどうかよく分からない、というより、「3/4、ヘタをしたら4/4くらいの確率で自分の子じゃない4人の子供を一人で育てながら、ながら、失敗ばかり、人に騙されてばかりの「おっさん」が出てきます。そのおっさんが、自分たちの小屋に火をつけられて全焼したあと、ポツリとつぶやく言葉があります。

 

「わし、この目ぇ、生まれてから50年、きたないもんしか見てないんですわ。やから子供にはきれえなもん見せとうて。またどっか、そうゆうとこ、さがしますわ。」

 

ぼくんち

僕はこの言葉がすごく印象に残っています。

私はひねくれた人間で、露悪的で、性悪説で、お天道様をまっすぐ見られなくて、ずっと人生の前半を損していたような人間です。いまだにまっすぐ歩けていない気がします。娘だけきれいなものを見せようなんて、愚かな考えではあるのですが、せめて美しいものは美しいまま、醜いものは醜いまま、まっすぐ見つめられるような人間になってほしいと思います。醜いものに蓋をして、上から塗りたくって美しいふりをしたりするのではなく、きれいなものばかり探してこの世と自分の醜さから逃げるのでもなく。

そして誰かの当たり前のような優しさにちゃんと気づいて感謝できる。ほんとうに「きれえなもん」が見える子になってほしい。

そう思っています。