慈眼寺 副住職ブログ

バガヴァッドかく語りき②

さて、先日はバガヴァッド・ギーターの第2章を引用し、「苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見」ること、すなわち、「理論(サーンキヤ)における知性(ブッディ)」について書きました。ヒンドゥー教の世界観が、仏教と同じ、諸行無常・諸法無我に限りなく近い認識論のうえに成立していることがよく現れていたように私には思えます。それもそのはず、そうした考えは両者の共通の思想的源流であるバラモン教のウパニシャッド哲学からの影響を色濃く残しているため、それらが似通っているのはむしろ当然だと言えます。もちろん、そこからの思想の発展の仕方は全く違いますし、原理の位置づけも違いますけれど。ヒンドゥーと仏教の相違点がハッキリしてくるのは、むしろ次の第3章での行為論だと思っています。今日はその第3章を紹介します。引用はすべて岩波の上村勝彦訳です。

 

アルジュナはたずねた。「クリシュナよ、もし行為より知性(ブッディ)が優れていると考えられるなら、何故あなたは、私を恐ろしい行為に駆り立てるのか。あなたは錯綜した言葉で私の知性を惑わすかのようだ。それ故、はっきりと、ただ一つのことを言って下さい。それにより私が至福を得られるような・・・。」

聖バガヴァットは告げた。―
アルジュナよ、この世には二種の立場があると、前に私は述べた。すなわち、知識のヨーガによるサーンキャ(理論家)の立場と、行為のヨーガによるヨーギン(実践者)の立場とである。
人は行為を企てずして、行為の超越に達することはない。また単なる〔行為の〕放擲(ほうてき)のみによって、成就(シツディ)に達することはない。
実に、一瞬の間でも行為をしないでいる人は誰もいない。というのは、すべての人は、プラクリティ(根本原質)から生ずる要素(グナ)により、否応なく行為をさせられるから。
運動器官を制御しても、思考器官(意)により感官の対象を想起しつつ坐す心迷える人、彼は似非(えせ)行者と言われる。
しかし、思考器官により感官を制御し、執着なく、運動器官により行為のヨーガを企てる人、彼はより優れている。
あなたは定められた行為をなせ。行為は無為よりも優れているから。あなたが何も行わないなら、身体の維持すら成就しないであろう。
祭祀のための行為を除いて、この世の人々は行為に束縛されている。アルジュナよ、執着を離れて、その(祭祀の)ための行為をなせ。
創造主(プラジャーパティ)はかつて祭祀とともに生類(プラジャー)を創造して告げた。―
これ(祭祀)によって繁殖せよ。これが汝らの願望をかなえんことを。
これにより神々を繁栄させよ。その神々も汝らを繁栄せしめんことを。互いに繁栄させつつ、汝らは最高の幸せを得るであろう。
実に祭祀により繁栄させられた神々は、汝らに望まれた享楽(食物)を与えるであろう。神々に〔祭祀を〕捧げないで彼らに与えられたものを享受する者は、盗賊に他ならぬ。
祭祀の残りものを食べる善人は、すいべての罪悪から解放される。しかし、自分のためにのみ調理する悪人は罪を食べる。
万物は食物から生じ、食物は雨から生ずる。雨は祭祀から生じ、祭祀は行為から生ずる。
行為はブラフマンから生ずると知れ。ブラフマンは不滅の存在から生ずる。それ故、偏在するブラフマンは、常に祭祀において確立する。
このように回転する〔祭祀の〕車輪(チャクラ)を、この世で回転させ続けぬ人、感官に楽しむ罪ある人は、アルジュナよ、空しく生きる人だ。
他方、自己(アートマン)において喜び、自己において充足し、自己において満ち足りた人、彼にはもはやなすべきことがない。
彼にとって、この世における成功と不成功は何の関係もない。また、万物に対し、彼が何らかの期待を抱くこともない。
それ故、執着することなく、常に、なすべき行為を遂行せよ。実に、執着なしに行為を行えば、人は最高の存在に達する。
実際、ジャナカ(聖王の名)などは、行為のみによって成就に達した。また、単に世界の維持のみを考慮しても、あなたは行為をなすべきである。
最上の者が何かを行えば、他の人々も同様にする。彼が手本を示せば、人々はそれに従う。
アルジュナよ、私にとって、三界においてなすべきことは何もない。得るべきもので未だ得ていないものも何もない。しかも私は行為に従事しているのだ。
何故なら、もし私が孜々として行為に従事しなければ、人々はすべて私の道に従うから。
もし私が行為をしなければ、全世界は滅亡するであろう。私は混乱を引き起こし、これらの生類を滅ぼすであろう。
愚者が行為に執着して行為するように、賢者は執着することなく、世界の維持のみを求めて行為すべきである。
賢者は行為にする愚者たちに、知性の混乱を生じさせてはならぬ。賢者は専心して行為しつつ、愚者たちをして一切の行為にいそしませるべきである。
諸行為はすべて、プラクリティ(根本原理)の要素(グナ)によりなされる。我執(自我意識)に惑わされた者は、「私が行為者である」と考える。
しかし勇士よ、要素と行為が〔自己と〕無関係であるという真理を知る者は、諸要素が諸要素に対して働くと考えて、執着しない。
プラクリティの要素に迷わされた人々は、要素のなす行為に執着する。すべてを知る者は、すべてを知らない愚者を動揺させてはならぬ。
すべての行為を私のうちに放擲(ほうてき)し、自己(アートマン)に関することを考察して、願望なく、「私のもの」という思いなく、苦熱を離れて戦え。
信仰を抱き、不満なく、常に私の教説に従う人々は、行為から解放される。
しかし、不満を抱き、私の教説に従わない人々、彼らをすべての知識に迷う、破滅した愚者であると知れ。
知識ある人も、自分の本性(プラクリティ)にふさわしく行動する。万物はその本性に従う。制止して何になろうか。
感官には、それぞれの対象についての愛執と憎悪が定まっている。人はその二つに支配されてはならぬ。それらは彼の敵であるから。
自己の義務(ダルマ)の遂行は、不完全でも、よく遂行された他者の義務に勝る。自己の義務に死ぬことは幸せである。他者の義務を行うことは危険である。
アルジュナはたずねた。「それでは、クリシュナ。人間は何に命じられて悪を行うのか。望みもしないのに。まるで力ずくで駆り立てられたように。」

聖バガヴァットは告げた。―それは欲望(カーマ)である。それは怒りである。激質(ラジャス)という要素(グナ)から生じたものである。それは大食で非常に邪悪である。この世で、それが敵であると知れ。
火が煙に覆われ、鏡が汚れに覆われ、胎児が羊膜に覆われるように、この世はそれ(欲望、怒り)に覆われている。
知識ある者の知識は、この永遠の敵に覆われている。アルジュナよ、欲望という満たし難い火によって。
感官と思考器官(マナス)と思惟機能(ブッディ)は、それの拠り所であると言われる。それはこれらにより知識を覆い、主体(個我)を迷わせる。
それ故アルジュナよ、あなたはまず感官を制御し、理論知と実践知を滅ぼすこの邪悪なものを捨てよ。
諸感官は強力であると言われる。思考器官(マナス)は諸感官より高く、思惟機能(ブッディ)は思考器官より高い。しかし、思惟機能の上にあるもの、それが彼(個我)である。
このように、思惟機能よりも高いものを知り、自ら自己(アートマン)を確固たるものにして、勇士よ、欲望という難敵を殺せ。

 

引用は以上です。

一見、仏教と似たようなこと言ってるじゃないか。三毒煩悩を消せみたいな話だろって、そうお思いになるかもしれません。しかしこの行為論は非常にユニークであると同時に、頑迷なほどに現状維持志向が強いといいますか、体制受けがいいと言いますか、現世利益的と言いますか、仏教がどんどん浮世離れして面白くなっていくのに対し、実にハウツーモノ的傾向が急に強くなっています。
ちょっと個人的に面白いのは「行為によって行為を超越する」というところですか。実にインド人らしい哲学的思考が垣間見えますが、その思索を深める方にはいかず、結局「行為しないと人類が滅ぶ」みたいな単純な世界観で突っ切っているところです。さらには偉い奴がちゃんと分かって行為してやらないと、ほかのバカが失敗する、みたいなカースト制度全肯定みたいな理屈も垣間見えます。「自己」なるものが実体として存在し、行為を自らしているような錯覚を捨て、自分たちは全宇宙の一要素として動いているに過ぎない、という認識。宇宙全体と自己の関係を体得して正しい認識を持て、ということを繰り返し説明しているわけで、このあたりも梵我一如の大前提に立ち、諸行無常・諸法無我の理論とほぼ同じ理屈で語っています。

決定的に違うのは、仏教では「だから」そうした行為の虚しさを知り、悟りを開けとすべての人に訴えるのに対し、ヒンドゥーでは「だから」各々に課せられた役割を全うすべし、と説くところです。つまり、「行為を超越した行為」である祭祀を行うのは一部の人間だけでよく、あとのものは世界の維持のためにこれまで通り行為をせよ、と、現状をそのまま肯定する。悩まずに戦士は戦士の務めを果たして戦って死ねばよいし、農民も悩まずに働いて死ねば良いし、奴隷は悩まずに奴隷としての生涯を全うせよ、というカーストの理屈がそのまま肯定できる。インドがいまだにジャーティやヴァルナなどの考えをなかなか払拭できないままそのまま資本主義化を成そうとしていることと、相応するような気がします。

つまり、決定的な違いは四宝印のうち、諸行無常・諸法無我は完全ではないものの、共通しているのですが、残りの「一切皆苦」の認識の有無が大きな差を生み、理想の状態である「涅槃寂静」の境地の意味合いにも差を与えている気がします。

「快と苦を等しく見る」ことで、平安な状態に至る、だから決められた運命を受け入れ、定められた行為に従事せよ、これがヒンドゥーの行為の原理です。
それに対し、「快も苦も等しく見る」ことの前提に、「この世は苦ばかりである」が存在する仏教では、「行為によって行為を超越する」というメタ的な視点はとらず、この世界そのものからの解脱の方向を強く志向している気がします。いわゆる来世への信仰や即身成仏など、単純に「生きること=苦しいこと」からの脱却がダイレクトに導き出されている気がします。それゆえ王族であろうと出家してしまいますし、一般人でも悟りを開ける、という一乗思想への展開が容易だったのだと思います。

仏教がヒンドゥーより優れている、という文脈で書きたいわけでは全くないことは断っておきます。どうしても仏教からの視点でヒンドゥーとの違い、という見方をしてしまいますので、ヒンドゥーに詳しくないぶん、ちょっとアンフェアな表現になっています。思想的にはむしろ、「行為によって行為を超越する」という視点のほうが、複雑な思考をしていて、実に興味深いです。逆に、思考としては単純に一切を空しいと否定していく形で、ありとあらゆるものを否定していく仏教の単純明快さが、結果的に中観派のようなメタ言語批判のような方向に進んでしまうのも面白い。ヒンドゥーは現状肯定と言いましたが、仏教の素朴すぎて不思議なところは、創世神の役割をする仏が見当たらないように思えるところです。一番近いのが大日如来ではあるのですが、それでも仏教的世界観で大日如来が世界を造った、とは言われない。世界を成立させる時空間などの原理が大日如来だ、ということは、少なくとも真言宗で言えるのですが、大日如来がすべてを造った、とは言えない。釈迦も元はただの人間です。釈迦が世界を造ったはずもない。阿弥陀如来も同様です。全て原理であって、世界そのものに対する問いは、仏教においてあまりにほったらかしといいますか、世界の存在を無条件に肯定しているところがある。説明する気すらない、という素朴さは、ちょっと恐ろしいほどです。

結局雑感を述べただけになりました。不勉強でいろいろツッコミどころ満載かと思いますし、自分であとから読んで顔から火が出ると思いますが、とりあえず久しぶりにバガヴァッド・ギーターを読み返して、現状頭に浮かんだことをツラツラと。