慈眼寺 副住職ブログ

お葬式

本日、お葬式に行ってまいりました。

と、いっても、導師として、つまりお坊さんとして行くのではなく、親族として葬儀に参加するためです。
父方の親戚の方が亡くなられまして、お通夜ならびにご葬儀に参列させていただきました。

家族葬に近い葬儀でしたので、近親者のみで、形式張らないお見送りができたように思います。
喪主様も気丈ななかに故人への想いが垣間見えて、子供の頃から知る人が、随分大人といいますか、お互い、もう若くないなと過ぎ去った年月を思いました。

いつもはやる側と言いますか、仕事というとまた語弊があるのですが、会場の最前列でお経をあげる立場ですが、一参列者として立つと、見える景色も違います。宗派も違いますので、こんなときになんなんですが、なるほどなぁとか、そうやるのか、という目線がどうしてもでてきてしまいます。

みんなが悲しんでいるときに、なんだお前は不謹慎な、とお思いかもしれませんが、場数だけは踏んでしまっていますので、どこか「慣れ」てしまっている自分が悲しくもあります。しかし、読経では「命終わる時に臨み、心転倒せず」の文言を唱える役割ですし、「生と死を等しく見る」のがヴェーダの時代から続く仏教の伝統ですから、お坊さんだけは悲しんでいてはいけないということもできます。

「葬式仏教」と揶揄されますが、本来は葬儀とは共同体や家主導で行われ、お坊さんは呼ばれてきただけでした。お坊さんがお葬式をするのではないのです。言ってみれば、結婚式に呼ばれる神父さんのごとく、それだけやって帰るような、そんな存在だったはずです。村の顔役や親族を仕切る誰かが全て取り仕切っていたものが社会の変化に伴い、それ専門のお仕事としての葬儀屋さんが誕生し、システマチックなお見送りの形式が出来上がってきました。今日控え室でマニュアルのような用紙を見つけ、見ていたのですが、それはもう事細かに、座る順番に焼香順まで書いてありました。これも時代だなと思います。

共同体がバラバラになり、核家族化が進むと、「人の死」に触れる機会は激減します。「仕切る」人がいなくなり、誰かに頼まねばならなくなる。お葬式を取り仕切るのは完全に葬儀屋さんになっています。葬送の仕方も、10年ほど前とはかなり様変わりし、音楽も流し、「最後のお別れ」を演出する要素がかなり増えました。私もときには葬式をしてもらう側になりますから、事細かなしきたりに忙殺され、悲しむ暇もないといったような形から、このような形態に変化してきたのも必然かなと思います。会社関係の方々もだんだん呼ばなくなり、会ったこともない議員さんの宣伝のための弔電も読まず、家族だけで「最期の時」を静かに迎えたい、そういうニーズが高まっているのを感じます。

冠婚葬祭全てにおいて、形式を簡略化し、本質だけを残すという合理化が徐々に、しかし確実に進んでいるわけですが、それを「嘆かわしい」などと言う気もありません。先ほど言ったように、自分が親族になったときにはやはり色々と痛感することもありました。これからもお葬式はどんどん合理化し、余計なストレスを軽減し、簡略化、短時間化が進むと思われます。とはいえ、お葬式が無くなってしまうことだけはありえないのも確かです。さすがに「葬式不要」とは言えない立場ですが、このような時代になっても、「来て欲しい」と思われるお坊さんであるためにはどうあるべきか、ということを、常に考えておかねばなりません。

ただ、一つだけ。

「演出」はあくまで「演出」であって、歌も花も飾りもお坊さんも、全ては形式に過ぎない。お葬式とはいつも突然やってきます。私たちはその「突然」にいつもそなえているので余計にわかります、本当にすべて「突然」やってきます。そのとき、用意したビデオや手紙も、立派な戒名もお坊さんの読経も、葬儀屋さんの画像も、全ては全部形式に過ぎません。しかし、ありとあらゆる「式」というものは、お葬式も、結婚式も、卒業式も、入学式も、入社式も、二次方程式も、不等式も、連立方程式も、「式」というのは、ありとあらゆるものに形を与え、意味付けを行う行為のことを指します。

それ自体は無意味に見えても、それらは全て内実、すなわち関係性を表象するものです。

焼香順や席順自体には何の意味もありませんが、「式」にすることによってそこに「意味」が生まれます。

20歳と21歳になんの違いもありませんが、「成人式」を挟むことによって「責任」が生まれます。

物理的にはただの心肺停止が、「お葬式」で「悲しむべきもの」になります。
情け容赦なく、いつも突然訪れて、我々の人生すべてを「無」だと告げてくるエントロピーの増大の無慈悲に対して、それまでに「意味」があり、その先にも「意味」がある、と告げ、だから、「死」は何ら「終わり」を意味しないのだと、世界の無意味に対峙する行為が「お葬式」である、と言うこともできましょう。

死んでしまうまでの母の人生はこれほどまでに尊く、死んでしまった父のこれからはこれほどまでに安らいでいる。いつ襲ってくるかわからない「死」は、決して終わりではない、そのように、人類全体が「死」に意味を見出すことで、「死」と闘う行為が、「お葬式」なのだと思います。

どれほど形骸化しても、どれほど簡略化しても、お坊さんのものでも、葬儀屋さんのものでもなく、残された者自身の、そして人類全体の行為が、「お葬式」にはある、そのように私は捉えています。これはお経の本にはどこにも書いていない、私の雑感です。