慈眼寺 副住職ブログ

トイレで念仏

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さて、お説教の勉強をしていて、今色々な資料や和歌なんかを暇なときに調べては、書き留めています。ちょっと備忘録として書き残したいと思います。
上のなんだか間抜けな画像は「法然上人絵伝」の一部です。正直この「絵伝」自体資料としてはかなりいい加減な部類に入るものですが、まぁ民衆教化用としてのわかりやすいキャッチーさが、なかなかどうして侮れません。

この絵にあてた和歌は

不浄にて申す念仏のとがあらば 召し籠めよかし弥陀の浄土へ

勝手に不肖ワタクシが翻訳しますと、
「トイレで念仏を唱えてますが、何か?文句あるなら私を阿弥陀の浄土へ連行してくださいな」
というものでしょうか。
基本、「不真面目でもいいよ。僕は真面目にやるけど」といった感じの優等生的なエピソードが多く、教説だけ超過激派という法然さんですので、こういうちょっと下ネタ系は珍しいですね。実に副住職の趣味ではあります。

おぼつかな誰が言いけん小松とは 雲を支うる高松の枝

阿弥陀仏と十声称えてまどろまん 永き眠りになりもこそすれ

このあたりもなかなかぐっときます。
上の方は、「何を考えとんのか。誰が小松と名づけたのか。この大空の雲を支える松は高くそびえる松ではないか。」「おぼつかなし」をどう訳するのかは、「古典単語900」を400だけ覚えて受験した私にはきつかったのですが、「ハッキリしない」の意味合いにしてみました。「松」を「念仏」に喩え、下品下生の易行とされる念仏を、いやいや、これこそが衆生を救い、浄土へ導く高松だ!と高らかに宣言する和歌とも受け取れます。

下の方はいつも私が口を酸っぱくして言ってる、「人は必ずいつかわからない時に死ぬ」という命題をそのまま和歌にしたものですね。これもなかなかいいですね。

私、どうもこう、仏祖を「さま」とか呼んで尊敬するという形の勉強はどうしてもできないんです。信仰心が足りないのかもしれませんが、色んな仏祖の言葉は、その人たちが尊いのではなく、その教説に価値があるわけで、あまり個人を崇拝するような心情にはとうていなれそうもないです。あくまで「法」を尊ぶのが仏教者としての態度だと思うんですよね。だから正直全員呼び捨てにしたいんですけど、なかなかそうもいかない。でも「学」とつく以上は研究対象に「様」つけちゃったら終わりかなぁという気もします。それじゃあ、宗教じゃん。アレ・・・?