慈眼寺 副住職ブログ

いじめ、論理的にカッコ悪い。

基本的に悪口を書かない主義の当ブログですが、今日は特定の人間ではなく、特定の行為について思いっきり悪口を書きます。と、いっても「当たり前のこと」だと思いますが。
なお、繰り返しますが誰か特定の方を想定しているわけではありません。今日そんな人に出会ったわけでもありません。常々思っているから書いてみたいだけです。

世の中には「全称判断」が大好きな人がいます。
「○○人は~~だ」とか、「○○する奴は~~だ」とかいう決めつけをする人です。
全称判断とは、「すべての○○は~~である」という形式の判断のことです。

こういう判断をして何事かを論評した気になる人が実に多い。

たとえば「黒人は身体能力が高い」なんていう差別的な発言をよくスポーツ解説者という何の資格でなれるのかわからない仕事の人がよく言っています。が、もちろん身体能力の低い黒人の方はいます。そもそも「黒人」ってどこからどこまで黒人なのか、よくわかりません。「黒さ」の基準があればわかりやすいのですが、「黒さ」にも全然基準がないのに、見た目で「黒い」と思った人にはとりあえず「身体能力が高い!」と言っとくと「何か解説した感」があるようです。あれだけ何度も使われると、既に何のありがたみもない発言内容になっている上に、「ただの差別」という何の価値もない言説です。そもそも身体能力って、どれのことをいっているのか。視力も嗅覚も触覚も「身体能力」でしょう。視力検査はしたのか。それにすべてのスポーツでアフリカ勢が勝つわけではないですよね。水泳や卓球、バドミントンではアフリカ勢がでてくることすら少ない。ゴルフ、テニスもそうでした。要は、そのスポーツをできる環境があるかないかが一番重要です。ケニア勢がマラソンで強いのは高地に生活しているからです。日本で生まれ育っていたら、どうなるかわかりません。

他にも「女なんてのは仕事にそもそも向いてない。感情的だし、論理的ではない。家で家事をしていればよい。」という昔ながらの古き悪きおっさんの発言。この発言自体既に論理的でないので、じゃああなたの性別はなんですか?ということになりますね。こういう非論理的な人間は、敵に回すと何をするかわからないので、結局退職するまで完全に無視すればいいや、と色々な意味でスルーされています。他にも、「私立の学生はひねくれている」「公立の小学校は荒れている」などと色々と非・論理的な発言をしては、「何事か言ってやった感」を出している痛い人がたくさんいます。

こういう人に、「いや、でもすべての公立小学校が荒れているわけではないよね?たとえばA小学校とか」などと言いますと、決まって返事はこうです。

「ああ、そうだね。そういう例外もあるけど、基本的にそういう傾向あるよ。」

なんて、言うわけです。
コレ、主張の質が、全然変わっているのですが。

厳密に言えば、「公立小学校は荒れている」というのは、「国・地方公共団体の設立したすべての小学校は、通うと危険な目にあう学校だ」という意味です。「そういう傾向」がある、なら「国・地方公共団体の設立したいくつかの小学校は、通うと危険な目にあうこともある学校だ」になります。これを特称判断といいます。「ある○○は~~である」という形式をとります。必要ならば%も出してその傾向性を示さなければならない。

まったく違う二つの判断形式を、言い換えただけだ、と主張するということは、この発言者が「敢えてミスリードを行う意図を持って発言した」ということになります。小学校の例の場合、「よくよく調べもしないで、公立小学校は全て荒れていることにしたい」という意図です。

そもそも全称判断を本当に満たす事例というのは非常にレアです。例えばこんなものですね。

「すべての人間は、死ぬ。」
「すべての美男子は、男である。」

といったものです。
「こんなん当たり前やん!」とお思いかもしれませんが、「すべての○○は~~である」を満たすのは、こんな何の変哲もない、楽しくもおかしくもない、当たり前過ぎて誰も尊敬も驚きもしてくれない命題のみです。

もうちょっと別の角度から見てみましょう。

ある推論をするさい、その方法は大きく分けて二つに分かれます。すなわち、帰納的推論と、演繹的推論です。
帰納的推論とは「個々の事例から、一般的な原理を導き出す推論」のことです。演繹的推論とは「一般的な原理から個々の事例について推論すること」です。方向が全く逆の推論であるといえます。

たとえば帰納的推論とは、「今まで見たすべてのカラスは黒い」といったようなものです。
「カラスなんて全部黒いやん!」とお思いかもしれませんが、そうではありません。あくまで「今まで見た」です。
これから先白いカラスが生まれないとは限らない。実際「白いカラス」は実在します。アルビノのカラスです。そんなのナシや!と言いたいかもしれませんが、アルビノのカラスはじゃあ、違う鳥なのでしょうか?帰納的推論はこのように経験した事実からのみ推論を行います。ゆえに、観察する事例が増えれば増えるほどその蓋然性は高まります。2万羽のカラスを観察するより、2億羽のカラスを確認したほうが、より蓋然性の高い判断ができます。ですが、それはどこまでいっても100%にはならない。99.999999999%確実でも、たった一羽の白いカラスが「すべてのカラスは黒い」を覆す。だから帰納的推論で言えることは「今まで見たすべてのカラスは黒い」というごくごく控えめな主張だけです。

逆に演繹的推論とは例えばこのようなものです。

「すべての人間は死ぬ。
 ソクラテスは人間である。
 ゆえにソクラテスは死ぬ。」

これもやっぱり当たり前で面白くもなんともない判断です。演繹的推論で言えることは、当たり前過ぎて誰も敢えて言わないようなつまらない主張です。ですが、当たり前だということは、「100%正しい」ということです。世の中には複雑な思考をしなかればならないことはたくさんあります。そんなときにこういう「100%正しい方法」というのは、「正しいか正しくないかよくわからないこと」を判定するための大事な道具になります。複雑な計算をする時に、計算機が壊れていたら、お手上げです。そして計算機自体は、1+1=2や1×1=1のような「当たり前」の原理から成り立っている機械です。正しいことは、面白くてはいけないのです。

ひるがえって、「面白いこと」を言いたがる輩です。

彼らは確信犯です。(確信犯という言葉の意味は本来こうではないのですが。その話は今日はしません。)わかっていてミスリードを誘います。
蓋然的な判断をあたかも不変の真理であるかのごとく言います。その蓋然性もごく少ない自分の身の回りの都合のいいデータだけを拾ってきて「私立中学なんて行ってる子はひねくれてる」などとしたり顔で言うのです。全称判断と特称判断もわざと間違えます。

なぜか。

差別主義者だからです。

なぜ差別主義者は確信犯的にそのような過ちを犯すのか。あらゆる差別は愚か者か卑怯者の仕業だからです。

特定の人種や性別、特定の障害や外見などを持った人をすべてひっくるめて「劣っている(または優れている)」と判断するのが差別です。差別とは第一に論理的に正しくないからいけない。差別者は特称判断と全称判断を混同し、蓋然的な帰納的推論を演繹的であるかの如く使用しています。すべての中国人に会ったわけでもないのに、「中国人は嘘つきだ」と言うのは、道徳以前に、論理的に完全に誤っています。たとえ、全中国人を調べた結果全員嘘つきだったとしても(それすらありえませんが)、これから中国に正直者が生まれないとは限りません。このように、あらゆる差別は、非論理的です。すなわち、愚か者の所業です。もし愚か者でないなら、敢えて愚かなふりをして過ちを犯していることになる。

ではなぜ敢えて過ちを犯すのか。それは卑怯者だからです。

「偏差値の低い大学を出た者は、劣った人間である」という差別があります。これもまた星の数ほどある反証を無視した非論理的判断ですが、なぜ反証を無視するか、もしくは無視したいか、といえばそれは、「そう思った方が、安心できて気持ちいいから」です。自分の拠り所が「偏差値の高い大学を出た」ということなので、偏差値が低い大学を出たのに自分より出世した人を認めたくないのです。これから何人も出会うことになる「自分より偏差値の低い大学を出た自分より優秀な人間」の存在を認めたくないから、差別をするのです。「正直者で性格のいい中国人」を認めたくないから中国人を差別するのです。「自分より優秀な障害者」を認めたくないから、障害者差別をするのです。

本当の現実世界は、常に勝つか負けるか分からない戦いの連続です。高校野球も毎回有名校が勝つわけではありません。中田翔選手だって一度大阪大会で負けています。中田翔を完全に抑え込んだ植松優友投手は、いまだ一軍登板がありません。マー君とハンカチ王子も力関係は高校とプロで大きく変わりました。勝負の世界とは、常に勝者と敗者が入れ替わる可能性を秘めた不安定な世界です。強いものがいつも勝つとは限らない。今日勝った者が明日も勝つとは限らない。強者もいつかは老いる。そもそも強いとか、弱いとかいう関係性すら、たまたまそのように見えている姿でしかありません。

その不安定な世界で、自分が優れている、ということを「永遠不変の真理」だと思い込みたい、すなわち毎度毎度勝つか負けるか分からない勝負に挑みたくないけど、勝った気にはなりたい人=卑怯者が、差別をするのです。しかも何の変哲もない、当たり前で面白くない真理は敢えて語らず、間違ったことを言ったほうが新奇な感じがして目立つからです。

いじめが卑怯というのはそういうことです。こういう細かい説明をせずに「いじめはダメ!」と頭ごなしに言っても何も分からないと思います。

差別はダメ、なぜならバカか卑怯者のすることだから。もしくは、その両方の、バカで卑怯だから。+目立ちたがりだから。終わってますよね。

「いじめ、カッコ悪い」という言葉をちょっとちまちまと補強してみました。自分も知らず知らずのうちにしょっちゅう行っている「差別」というものが、あらゆる点でいかにダメか、自分に分からせる意図に途中から変わってしまいました。いつでもそうです。私の敵はいつも私です。あまり、他人には興味がありません。よくいわれます。