慈眼寺 副住職ブログ

お説教の研修会

 

初午が終わり、HPのアクセスが激減してちょっと寂しい副住職です。

ですが、ブログは頑張って更新していきます!

初午は終わりましたが、土日になると特に沢山の方がやくよけにお参りに来て下さり、ありがたいことです。2月、3月の土日はサイクリングもほぼ諦めています・・・。

 

さて、そんな忙しい中ですが、昨日は午後から住職にお暇をもらい、自転車!・・・ではなく、お説教の研修会に参加させて頂いてきました。場所は星田の慈光寺。慈眼寺と一字違いのお寺です。「慈」とついているお寺には観音様の由来があることが多いのですが、やはり十一面観音の有名なところらしいです。

以前、こちらの方面の学校で働いていたこともあるので、家庭訪問などでこっちへ来たり、クラブの練習試合でこちらに来たり、バドミントンの武者修行でこのへんでプレーしたり、自転車で「悪魔の府道7号」を登ったりしてますので、このへんの地理にはそこそこ明るい方です。星田付近は広い道もあるのですが、一本入るととんでもなく神経を使う細い道が多いです。場所的にはくろんど池から降りてきたら済むところなので、「自転車できたらすぐやん!」と思いますけど、昨日はお説教の勉強ですのでちゃんとした着物を持って行かねばならず、軽自動車で行きました。交野というところは奈良からすると近くて遠い場所で、阪奈越えでも163越えでも京奈和経由でも絶妙に時間がかかり、これが近道!というルートがないのが悩みですねぇ。自転車でいったらちょうどいいのですが。

そして慈光寺。一方通行の道は少し細かったのですが、ついたお寺の本堂は広々として、天井は立派な格天井。歴史を感じさせる堂々とした伽藍でした。ウチの娘と同い年のお孫さんもおられて可愛いかったです。基本、お説教では緊張してしまい、写真を撮る余裕もないので今日はインターネットでお借りした写真のみです。すいません。

慈光寺

 さて、私は去年からお説教というものを勉強し始めていまして、毎月行ける時には宗派のお説教の研修会にお邪魔して、自分で発表したり、ほかのお坊さんのお説教を聴いて勉強したりしています。よく、普段教師やってるんだから、人前で話すのは慣れてるやろ?と言われますが、別物ですねー。毎回ものすごく緊張します。生徒と違って今日、この日しか会えない方もいっぱいおられますし、毎回知らない場所で、お坊さんの難しい作法も頭に入れながら、そして居並ぶ先輩方のお坊さんの前で話すというのは、毎回参観日みたいなものです。聴いていただく方々も自分より年配の方ばかりですので、まさしく新任の先生の参観日ですね。何より、自分が緊張しているものですから、聴衆の皆さんにもそれが伝わって、「アレ?このネタ授業では鉄板なのに・・・」という違和感が最後まで抜けません。話すスピードや口調も普段と変えなければなりませんし、時間も限られていますので、やはり別物といっていいですねぇ。

 昨日は私の唯一の持ちネタ、「善導大師の懺悔」というネタの2回目の披露を行いました。懺悔のない念仏は意味がない、というより、懺悔があってはじめて念仏が口から出る、というお話なのですが、1回目よりは無駄なものを削ぎ落として、マシになった気がします。ただ、もっともっと削ぎ落とせる余地があったように思います。まだお説教をはじめてわずかですが、お説教というのは削って削って削り落としていくものだなと。引き算だなと。授業はなるべく多くの単語を浴びせ、記憶への取っ掛りとして印象づけるものを浴びせかける足し算や掛け算の話術ですが、お説教はその逆だなと思います。「どうしてもこれだけは覚えて帰ってほしい」という一つのことだけのために、ほかのあらゆることを話しながら、最終的には一つのことだけを印象づけるために削り落とす、そういう話術なのかもなぁと、帰り道で反省です。やはり「では続きは明日」というわけにはいかないので。もちろん授業も「今日はコレ!」というポイントはあるのですが、一期一会の性格がお説教はやはり強い、と思いました。

 あ、ちなみに私は説教師として日本中をまわったりするようになりたいわけではなく、まぁ最低限のお説教のマナーといいますか、ルールを勉強したくて、去年から頑張っています。いつまでも善導大師の話しかできないのもアレなので次のお説教のネタを作らないといけません。私は仏教系の大学を出たわけではなく、大学ではトマスアクィナスの神学大全を読んだり、リグヴェーダを読んだり、カントを読んだりマイケルサンデルを読んだり、ハイデガーを読んだりウィトゲンシュタインの読書会をしたり、大阪のホームレスの問題を勉強したり、とにかく仏教以外のことばかりやっていたので仏教についてあまりに何も知らないので、四十にして惑いまくりで図書館でお勉強しています。どっかの仏教大学行きたいなぁ。