慈眼寺 副住職ブログ

なぜ午の日に厄除けをするの?(2)「午」という字を考える。

さて、先日「なぜ午の日に厄除けをするのか?」について雑多な考えを述べましたが、まとまりのない話になってしまいました。ですがそんな中でも、お稲荷さんの話はそれなりに整合的でした。

 「ウカノミタマが伊奈利山(稲荷山)へ降りた日が和銅4年(711年)2月11日であった」ことが根拠して挙げられています。同様の事例として観音様の厄除けが初午に行われることについて、ご近所の松尾寺さんの「松尾縁起」が挙げられます。「舎人親王が42歳の厄年のとき、日本書紀完成の願をかけて、養老2年(718年)2月初めの午の日、松尾山に参詣修行したところ、東の山に紫の雲たなびき、千手千眼観世音菩薩が天降りご出現なされた」というものです。お稲荷さんも観音さまも「初午」なのです。この二つの事例はおそらく、というか確実に、日本の厄除けという文化を語る上でお最も重要な資料でしょう。なにより確認できる一次資料の質と量が桁外れです。

 しかし、こうした故事にならって現代まで受け継がれた、というだけでスッキリしない自分もいます。以前、勤務先の学校で「職員室に入るときはマフラーを外せ」と生徒に怒ってらっしゃる先生がおられ、「そもそもなぜマフラーをつけて職員室に入ってはダメなのか?」とその先生に聞くと「ルールだから」「マナーだから」と答えられました。坊主なんていう儀礼儀式に縛られた有名無実化した形式の世界に生きている人間ですが、だからこそ、形式化する前にそのルールが作られた根拠があるはずだ、と私は考えるタイプです。それが現在の生活においてそれなりに説得的でないと、従う気にはなれない、もしくは、現在は通用しなくなっていても、ルールが作られた当時にまかり通った「理」を知らないと、スッキリしない、というのが私の性分です。

 そして、前回の考察で「午」=「馬」と考えたとき、「厄除け」と「馬」を繋げる根拠があまりに乏しいと指摘しました。そうなのです。“「午」は「馬」に非ず。”公孫竜風に言ってみました。

 困ったときは字源です。漢字って本当に便利です。

 「午」は十二支ですが、そこに動物をあてたのは本質的なことではありません。これは覚えやすいように当てはめただけです。ほとんど意味がないと言っていいでしょう。午は馬ではないし、鶏も酉ではないのです。戌も犬ではないのです。

 では「午」は何なのか。語用を見ればすぐわかります。「午」を一番よく見るのはどんなときか。

 「午前・午後」です。「午後の紅茶」です。「正午」です。

 また、「午」の語義は「忤」です。「さからう」です。逆らうのです。つまりひっくり返るときです。(「忤」を中学高校の歴史の教科書でも見たでしょう。「和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ。」と十七条憲法で聖徳太子も言っています。)

 太陽は日の出から午前中に徐々に高度を上げ、基本的に正午に南中し、最高点に達します。午後には徐々に高度を下げ、やがて日没します。正「午」を境にひっくり返るのです。

 「午=忤」はこのように、勢いがついたものが最高点に達し、やがて落ちていく転機をさします。まさしく「崖の上で不安になる」という「厄」の本質を突いています。

 先日私が引用した祖父の口癖もここにピッタリと当てはまります。「厄年は勢いのあるとき」であるという考えです。女性の場合特に19、33、37は「陽+陽」の組み合わせです。言ってみれば正午にあたります。

 「午」が使われている他の字として「杵」もあります。杵は上下の端で餅をつくことができます。刀や槍などと違い、真ん中を中心に点対称です。

「午」「忤」「杵」これらの漢字は「転換点」「転機」という意味合いと切り離せない関係にあるのです。

 ひるがえって2月(旧暦を新暦にあてはめると3月)の初午です。季節としてこのときは「立春」のあと、春の始まりを告げる時期です。「三月のお水取りが終わらないことには・・・」という奈良人の口癖は暦のうえで極めて由緒正しい感想ということになります。さすが古都奈良。やればできる町です。

 こうしたことを総合して、確かに稲荷山にウカノミタマが降臨した日も、舎人親王が厄除けをした日も「初午」で、それが由緒正しい厄除けの習慣を形成したのは間違いないでしょう。今回のこの駄文はそれに対する疑義などを提起する意図は毛頭もないことはハッキリ言っておかねばなりません。

しかし、そもそもなぜウカノミタマが、舎人親王が、「初午」の日を選んだのか、とさらに問えば、「初午」は春のはじまりを祝い、新たな年の収穫を祈り、自分や家族の無事を祈る「節句」としてすでに確立していたと考えることは自然です。そしてそれは「午」という文字が最初から織り込んでいることだったのです。「初午だから厄除け」なのです。説明も来歴も要らないのです。いわんやHorseは全くお呼びじゃないのです。

 以前「厄年とは何か?」の日記で、

 厄除けとは、いつ起こるかわからない災厄に対して、無自覚に生きるのではなく、逆にただただ怯えるのでもなく、今この時無事であることを感謝し、これから起こるかもしれないあらゆることをあるがままに受け入れる態度を確かめるために、節目節目に手を合わせることである、と。

 と言いました。初午こそが、一年のあいだで、特に農耕民族にとって一番重要な節目として、手をわせるのにふさわしい時期だったのです。

 そして「初午に厄除け」のルールは中国から漢字と暦が伝来したとき既に、「午」という言葉自体に織り込まれ、暦に織り込まれた「システム」として最初から決定づけられていました。そこにお稲荷さんや観音さまがさらに織り込まれていきます。稲荷は日本の神ですが、観音さまはインドの神です。仏教も最初は八百万の神のなかに入ってきた「蕃神」でした。こうした様々な要素が、日本という国の中で独特の変質を遂げ、現在まで伝わっています。「厄除け」という行為で一括りにすれば見えにくいですが、この一本の糸には斯様にたくさんの細い糸がより合わさっていることがわかります。

 なぜ午の日なのか、という問いについてはこれくらいにして、次は慈眼寺にとって最も重要な「観音さま」がなぜ厄除けの信仰対象となったのか、ということについて考察したいと思います。厄年、午、お稲荷さん、遠回りをしてようやくここまできました。

あ、次、と言いましたがこの手の日記は体力がいるので、パワーが溜まったら書きます。