慈眼寺 副住職ブログ

死についての話

今日は、小難しくて、気が滅入るようなことを書きます。

先日はある意味毎年厄年などということを書きましたが、これは実は仏教的バックボーンのみに基づいて書いたものではありません。念頭にはハイデガーの存在論を大いに意識して書いていました。私はハイデガーを真剣に研究したわけではないですが、個人的には彼の野暮ったい考え方は大好きで、というより野暮ったい思想家がそもそも好みな気がします。さらっとオシャレな思想を展開する人は苦手です。

で、専門家でもなんでもない私がハイデガーの思想について云々するのは誠にお恥ずかしいのですが、ごくごく簡単に言えば、ハイデガーの思想は「人はいつ死んでもおかしくない、くせにそれから常に逃げている。逃げざるを得ないような形でのみ存在している。」とでも言えばいいのでしょうか。簡単に言えば却ってわからないでしょうか。

人には楽しみがあります。趣味があります。仕事があります。生きがいがあります。自転車に乗ってああ楽しいなとか、大きな仕事をやり終えてこれは俺の天職だなと思ったり、家に帰って娘の寝顔を見て胸がいっぱいになったり。他にも酒を呑んで酔っ払ったり、女性と恋をしたり、ときには盗撮や覚せい剤などの犯罪行為をする人もいるでしょう。これらを同列に扱っては怒る人もいますが、ハイデガーは全て同列に扱います。ある一つの事柄に対置して、高等なものも下等なものも人が行う営みはすべて「頽落<たいらく>」した、「非本来的」なものであるとされます。対置されるものは何か。それは「死」です。

私たちは必ず死にます。今、あるニュースで命の危機に瀕している二人を見て、胸を痛めている人はたくさんいるでしょう。彼らの命は危機に瀕しています。しかし、逆に彼らの命に思いを馳せながら、今日自宅のソファで突然心筋梗塞で命を失う人もいるかもしれません。危険な状態にあるから死ぬのではないのです。人はみんな、例外なく、必ず、いつかわからないときに死にます。絶対に死にます。私も死にます。あなたも死にます。

もちろん死ぬ確率の高い人とそうでない人はいるでしょう。難破船で救助を待つ人と、ゴルフの打ちっぱなしでスイングしている人の死亡する確率が同じなはずがありません。

しかし、確率などに、何の意味があるでしょう

 何億分の1の確率であろうと、99%の確率であろうと、死ぬときは死ぬし、死なないときは死なないのです。確率というのはあくまで数多くの事例を平均した結果出されたものです。この病気の致死率は0.001%しかないと言われたら、少し安心できるかもしれませんが、そこで安心するとき、私たちはその0.001%が哀れな他人に降りかかると無意識で考えています。でも、もし自分にふりかかったら?100%の、1/1の死として、現実化するだけです。

 確率など、本質的にはなんの意味も持たないのです。本質的、というのは、自分という、他に代えの利かないたった一つの存在に関する限り、ということです。どんなに愛する人がいたとしても、その人の死と自分の死は意味合いが異なります。量的に異なるのではなく、質的に異なります。人の死は悲しいか、あまり悲しくないか、その人との親しさの程度によって異なる感情を引き起こしますが、自分の死はもはや悲しいとか悲しくないとか感じることすらできなくなることを意味します。自分の死は、自分にとっては、世界の死と全く同じ意味合いを持ちます。

 そんなことは分かっている、ハイデガーとかいう変な学者に言われるまでもない。哲学ってそんな簡単なこともわからないの?そう言う人もいるでしょう。実は哲学はそんな簡単なことも分からない学問です。人が歩いたり息をしたり心臓を動かしたりするように、ごくあたりまえに何も考えないでやっていること、だからこそその構造や意味や価値を理解せずに行っていることの、裏側や底を覗かずにはいられない。そんな「病人」の叫びが哲学です。

 「人はいずれ死ぬ」

 したり顔で誰かや私も言いますが、いつもそれを「誰か」「人類全体」「生物」「みんな」などぼかした表現で言い表している。もちろんそこに自分が含まれていることも十分理解していますが、敢えてぼかしている。なぜなら死ぬのが怖いからです。死ぬのが怖いから、不安だから逃げるのです。何に?人生に、です。人生から逃げるのではありません、人生に逃げるのです。仕事、趣味、快楽、愛情、ありとあらゆる我々の没頭するものは、すべからく死への恐怖から逃れるために一時的に没頭しているものに過ぎません。だから次から次へと我々は何かに熱中するのです。退屈してしまったら、死について考えてしまうからです。死と向き合ってしまうからです。必ず自分自身がなくなってしまうということに。

 だから、我々が人生に熱中すればするほど、それだけ我々は死を恐れているということになる。価値ある仕事に没頭している人も、卑劣な犯罪に手を染めて一時の快楽に身を任せている人も、等しく死を恐れている。恐れれば恐れるほど、そこから逃げて、非本来的なありかたへと「頽落」する。本来的なあり方は「必ず死んでしまう」ということなのに。

 だから毎日死について考えろ、とか、わざと命懸けの危険な状況に身を置け、とハイデガーが言うわけではありません。そのように利用しようとした人たちはいるのですが、少なくともハイデガーの思想を忠実に理解しようとすればそうではありません。「俺は死ぬ。俺は死ぬ。」と言い続けることは「死ぬと言うことに没頭している」のであって「死」に没頭しているわけではありません。死なないから安心して死ぬなんて言えているわけです。これも頽落です。命懸けで戦場で戦っても同じです。自殺を繰り返すのも同じです。死は行為ではありません。存在しなくなることです。自殺という行為は生きているからできることです。死は自殺が終わった時にのみ訪れます。自殺だけが死への道ではありません。温泉に入っていても死は訪れます。自殺も入浴も同じことです。さきほど申し上げたように確率は何の意味も持ちません。自殺未遂を何度も繰り返して、長生きをした人もいるのです。そして、命の長さもまた、生きることと死ぬことの質的差異に何の意味も持ちません。

 では、私たちはどうせよとハイデガーは言うのでしょうか。

 どうもせよとは言わない、のだと思います。このように我々が死の不安から逃げ、日常性に頽落して非本来的なあり方をするのは、人間(「現存在」)にとって不可避のありかたで、他の有り様は有り得ない、と彼は言います。逆に言えば普通に生きている人ほど、死についてよく分かっている。あらかじめ覚悟している。これを「先駆的覚悟性」と言います。だから、ハイデガーの思想を読んでも我々は仕事を辞めたり、宗教団体に入信したり、戦場に行く必要は全くありません。求められるのは、そういうものだ、と理解し、自覚し、考え抜くことだけです。

つまり、仕事をしながらも、恋愛をしながらも、「私は死から目を背けながら、いつか死ぬ人生を生きている」と自覚せよ、とだけハイデガーは言っているように私は思います。ハイデガーは宗教者によく引用されますし、私もちゃっかりしてしまっているのですが、それはハイデガーが宗教的である、ということを必ずしも意味しません。私は逆に、宗教がハイデガー的なのだと思っています。哲学は思考を本質としますが、宗教は信仰を本質とします。この場合、同じ死をテーマとしているがゆえにその軌跡はときに重なりますが、その性質は全く異なります。宗教者が哲学をすることもありますし、哲学者が宗教を信じることもありますが、二つは異なるものです。ハイデガーからすれば宗教者だって頽落している非本来的なあり方をしているのでしょう。

 ただ、私は必ず死ぬ、というこの存在了解のために、ハイデガーの思想は非常に手助けになる、そう思って、浅学を承知で長々と書かせていただきました。用語の使い方など厳密さに欠けますが、坊主の戯言とご容赦下さいませ。